前提としてあった状況
年末年始にかけて、仕事とは直接関係のない飲み会が続いた。
形式としては「付き合い」「顔出し」「断る理由がないから参加する」といった類のものが多かった。
参加している最中に大きな問題が起きるわけではない。
ただ、翌日以降に残る疲労感や、思考の鈍さ、生活リズムの崩れが、徐々に無視できないものになっていた。
ここで重要なのは、「飲み会が嫌いになった」という話ではない。
参加の基準が曖昧なまま、惰性で選んでいたことに気づいた、という点だ。
当時、どのように考えたか
一度立ち止まり、飲み会を「行為」ではなく「入力」として捉え直してみた。
- その場で得ている情報は何か
- 人間関係にどの程度、実質的な変化があるか
- その翌日以降の自分の状態はどうなるか
整理してみると、一定数の飲み会には共通点があった。
- 新しい情報や視点はほとんど得られない
- 関係性が深まるわけでも、次の行動につながるわけでもない
- 体調・集中力・気分に明確なマイナスが残る
この整理を通して、「無意味な飲み会」という言葉が、自分の中で輪郭を持ちはじめた。
取らなかった選択
この段階で検討しなかったわけではない選択肢もある。
- 回数を減らす
- 参加時間を短くする
- 年末年始だけの特例にする
ただ、これらはいずれも「先送りのための調整」に近いと感じた。
根本の問い、つまり 「なぜ行くのか」 には触れていない。
結果として、今年は次の線を引くことにした。
意味を説明できない飲み会には、原則として参加しない
後から見えてきたズレ
振り返ると、これまで飲み会に足を運んでいた理由の多くは、合理性ではなかった。
- 断ることで評価が下がるのではないか
- 関係が切れるのではないか
- 自分だけ取り残されるのではないか
いずれも、「起きるかどうか分からない不安」を前提にしていた。
しかも、その不安が実際に現実化した経験はほとんどない。
選択の軸が、現実ではなく想像に寄っていた点は、明確なズレだった。
今なら考え直すポイント
この文章は、飲み会そのものを否定する宣言ではない。
あくまで、自分なりの基準を明確にしたという記録に近い。
今なら、次の問いを必ず挟む。
- この場に行くことで、何が得られると考えているか
- それは翌週や翌月の自分にとって意味があるか
- 行かない場合に失うものは、実在するか
これに答えられない場合は、参加しない。
逆に、答えられるなら行く理由は十分にある。
読み手への問い
- 最近参加した集まりについて、「行った理由」を言語化できるだろうか
- 行かなかった場合に起きると想像している不都合は、過去に本当に起きただろうか
- その選び方は、今の自分の状態を前提にしたものだろうか
これは出来事の記録ではなく、
選択が惰性になっていなかったかを点検するための、思考のログである。

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