前提
会社勤めをしていた頃、小さな開発会社に未経験の社員が入ってきた。
30代後半で、プログラム経験はほぼない。それでも本人はやる気があり、「やらせてください」とはっきり言うタイプだった。
会社の規模は小さく、余剰人員はいない。
教育専任の体制もなく、案件は常に動いていて、納期には余裕がなかった。
未経験者をどう育てるか、会社としての方針が明確にあったわけではない。
現場で何とかする、という前提だけが共有されていた。
当時、現場で取っていた判断
やる気があると言われれば、完全に断る理由を見つけるのは難しかった。
小さなタスクから任せ、様子を見る。
その判断を、何度も繰り返していた。
結果として起きた流れは、ほぼ毎回同じだった。
- 任せる
- 期限が近づいても進まない
- 最終的に、私や他のメンバーが巻き取る
- 納期はなんとか守る
本人に悪意があったわけではない。
ただ、「最後まで自力で完遂する」という地点には、どうしても届かなかった。
それでも、任せる判断をやめなかった。
なぜ、期待を捨てきれなかったのか
今振り返って思うのは、
私はどこかで「いつかできるようになるのではないか」と期待していた、ということだ。
理由は、私自身の過去にあった。
過去に、自分は「向いていない」と言われたことがある。
それは、実際にやってみた結果ではなく、やる前から置かれていた評価だった。
実際に手を動かし始めてみると、特別時間がかかったわけでもなく、普通にできた。
その経験があったから、
「今できていない」という状態を、能力の限界だと判断することに、強い抵抗があった。
目の前の未経験の社員を見ながら、
「評価が先に決まりすぎているだけで、まだ分からないのではないか」
そんな感覚を、どこかで引きずっていた。
その期待が生んでいたもの
ただ、その期待は、現場の現実とは噛み合っていなかった。
- 学習のための時間は確保されていない
- 失敗が許容される設計でもない
- 納期は固定で、誰かが必ず穴を埋める必要がある
「まだ分からない」という留保は、
その間に発生するコストを、誰が負担するのかという問いを曖昧にしていた。
実際には、
- 納期リスク
- 精神的な消耗
- 工数のしわ寄せ
が、静かに特定の人に集まっていった。
誰かが巻き取ることで、プロジェクトは回る。
だが同時に、「ここで判断すべきだ」というサインも、消えていった。
会社の判断をどう捉えるか
最終的に会社は、その社員にプログラムを書かせることをやめ、営業など別の役割を任せるようになった。
結果だけを見れば、適性を見た配置転換だったとも言える。
ただし、それはかなり後になってからの話だった。
未経験、30代後半、小規模組織、納期厳守。
この条件が揃った現場で、「現場で育てる」という前提を置いた判断には、やはり無理があったように思う。
育成を選ぶなら、
- 任せない期間
- 評価基準
- 教える側の工数
が必要だった。
それを用意できないなら、もっと早く別の役割を検討するべきだった。
自分の判断をどう見るか
では、自分の判断はどうだったのか。
当時の自分には、採用や配置を決める権限はなかった。
目の前には納期があり、プロジェクトを止める選択肢は現実的ではない。
巻き取るという判断は、短期的には合理的だった。
場を壊さないための、現実的な選択でもあった。
ただ、
「評価が早すぎた過去への反発」と
「目の前の事実を見ること」
を、切り分けられていなかったようにも思う。
相手の可能性を見ていたつもりで、
実際には、自分自身の経験を重ねていただけだったのかもしれない。
後から見えてきたズレ
時間を置いて振り返ると、問題は個人ではなく前提にあった。
- 未経験者をどう扱うか、会社として決めていなかった
- 「やる気」と「実行力」を分けて評価していなかった
- 善意の巻き取りが、判断のタイミングを遅らせていた
誰かの可能性を信じること自体は否定しきれない。
ただ、それを支える設計がなければ、現場は消耗する。
今なら、どう考えるか
今なら、次の点を先に考える。
- 未経験を受け入れるなら、最初に「任せない期間」を設ける
- 実務投入の条件を、感情ではなく可観測な基準で決める
- その期待は、事実に基づいているのか、それとも自分の過去なのかを自問する
可能性を信じることと、判断を保留することは別だ。
まとめ
- 自分の過去の成功体験や違和感を、他人に投影していないだろうか
- 「まだ分からない」という言葉で、判断を遅らせていないだろうか
- その留保は、誰の時間と負荷で成り立っているだろうか

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