辛いことや嫌な出来事があると、誰かに話したくなる。
それ自体は自然な反応だと思う。私自身も、以前はそうだった。
ただ、今は「できるだけ愚痴を人にこぼさない」という選択をしている。
それは我慢しているというより、そうした方が自分にとって都合がよいと感じるようになったからだ。
なぜ人に話したくなるのか
嫌なことが起きたとき、頭の中は散らかっている。
整理されていない感情や不満を、言葉にして外に出したくなる。
分かってほしい、共感してほしい、正しさを確認したい。
そういった欲求が混ざっている気がする。
当時の私は、それを深く考えず、「話す=発散」として扱っていた。
話していた相手を振り返ってみる
特に思い出すのは、飲み屋のマスターに愚痴をこぼしていた頃のことだ。
仕事のこと、人間関係のこと、理不尽だと感じた出来事。
その場では、聞いてもらえて少し楽になった気がしていた。
だが後から考えると、あれは相手にとってどうだったのだろう、と思うようになった。
その人は、私の問題を解決する立場でもなければ、背負う必要もない。
仕事として聞いてくれていただけ、という側面もあったはずだ。
今振り返ると、申し訳ないことをしたと思っている。
愚痴は、思考を固定する
ある時から、愚痴を話した後に、自分の考えが前に進んでいないことに気づいた。
同じ話を、同じトーンで、何度も繰り返している。
話すことで楽になった気はするが、状況は何も変わっていない。
むしろ、「自分は被害者である」という構図を、自分自身で補強しているようにも見えた。
独立してから変わった前提
もう一つ、愚痴を言わなくなった理由として大きいのは、独立したことだと思う。
会社員だった頃は、どこかに「自分では変えられない前提」があった。
会社の方針、上司の判断、組織の空気。
不満を感じても、それを自分一人で引き受けなくてもよい、という感覚があった。
独立してからは、その前提が崩れた。
仕事の取り方も、条件も、続けるかやめるかも、基本的には自分で選んでいる。
そう考えるようになると、愚痴の置き場がなくなった。
愚痴が「他責」になる瞬間
愚痴を言っているとき、無意識に原因を外に置いていることが多い。
だが、自分で選んだ仕事や条件について誰かに不満をこぼすと、どうしても違和感が残る。
「それを選んだのは自分だ」という考えが、後から必ず戻ってくる。
結果として、愚痴を言っても楽にならない。
愚痴をこぼされる側になって考えたこと
自分が話す側ではなく、聞く側になったときの感覚も大きい。
同じ不満を、
結論もなく、
ただ繰り返し聞かされるのは、正直つらい。
相手の状況が改善されないまま、
感情だけを受け取り続けると、
こちらの思考も少しずつ消耗していく。
「聞いている自分が悪いわけではない」
と頭では分かっていても、
どこかで距離を取りたくなる。
その感覚を知ってから、
自分が愚痴をこぼすとき、
同じ負担を相手に渡していないか、
一度考えるようになった。
話し方を変えるという選択
完全に何も話さなくなったわけではない。
変えたのは、話す内容と角度だ。
何が起きたか、その時どう考えたか、今振り返ると別の見方はないか。
こうした形で、少し距離を取って話すようになった。
同じ出来事でも、愚痴として話すか、整理された話として話すかで、自分の気分は大きく違う。
面白おかしく話せるようになった理由
以前は、嫌なことはそのまま吐き出すものだと思っていた。
今は、「どう切り取れば、自分が前に進めるか」を先に考えるようになった。
面白おかしく話す、前向きに話すというよりも、
自分がその出来事に飲み込まれない形で話す、という感覚に近い。
今なら、こう問い直す
もし今、誰かに愚痴をこぼしたくなったら、一度立ち止まって考える。
これは本当に相手に渡す話だろうか。
それとも、自分の中で整理すべき話だろうか。
話すことで、私は前に進めるだろうか。
答えが出ないなら、無理に話さないという選択肢もある。
愚痴を言わないことは、強さではない
愚痴を言わなくなったことで、気持ちが楽になったかといえば、必ずしもそうではない。
ただ、自分で選んだものを、自分の言葉で引き取るしかない、という感覚は以前よりはっきりした。
愚痴をこぼさないという選択は、気分をよくするためのものではなく、自分の選択から目を逸らさないためのものなのかもしれない。

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