はじめに
20歳から20年間、ずっとニートを続けている同級生がいる。
かつては「いつか動き出すだろう」と見守ってきたが、40歳になった今、彼との会話に強烈な違和感と疲労感を感じるようになった。
長年の情があり、なかなか踏ん切れなかったが、ある出来事をきっかけに「もう同じ世界には住めない」と確信した。その理由を整理してみたい。
1. 「知識」という名の、行動しないための武装
彼は驚くほど知識だけは豊富だ。ラーメン屋や唐揚げ屋をやりたいと言い出し、居抜きの相場や仕入れルートをプロのように語る。
しかし、側から見れば、それは「攻略本を読んだだけでプレイしたつもりになっているゲーム」の感想に過ぎない。
- 議論が成立しない: 現実的なリスクを指摘すれば、すごい勢いで反論される。
- 目的が「正当化」になっている: 彼は解決策ではなく、「有能な自分」というファンタジーを肯定してほしいだけなのだ。
社会経験の乏しさは、単なるスキルの欠如ではなく、「想像力の欠如」として現れる。
2. 「太く短く」の裏側にある残酷な現実
彼は「人生は太く短く生きればいい」とうそぶく。
無職ながら女性関係も派手で、一見すると刹那的な自由を満喫しているようにも見える。しかし、その生活を支えているのは「老いた母親」という生命維持装置だ。
以前、バーベキューをした際、お母さんが食材をわざわざ運んできてくれたことがあった。しかし彼は、連れてきていた彼女のタンブラーが見つからないという些細なことで、お母さんを激しく怒鳴り散らしていた。
お母さんは、彼が今住んでいる仮設住宅の片付けにも時々通っているようだ。40歳の大人が、自分の不手際を棚に上げて、無償の献身を続ける親を支配の対象として扱う。その光景は、あまりに悲しく、異様だった。
さらに、区画整理で今の住まいを追われるかもしれない瀬戸際で、お母さんが「家を建て直さず現金をもらう(老後の備えにする)」と決めたことに対しても、彼は自分の居場所がなくなることに腹を立てていた。
親を「自分のための所有物」としてしか見られない精神状態。それは美学でも何でもない、ただの搾取だ。
3. 若者の時間を奪う「無敵の評論家」
彼はネットで10代の若者たちと交流し、漫画家志望の女の子にアドバイスを送っているという。
自分自身は描いていないにもかかわらず、リスクのない場所から「教える側」に回って自尊心を満たしている。
プロの編集者に作品を見せるという、一番厳しく、しかし確実な最短距離を否定し、自分の狭い価値観の中に若者を留めておく。それは「時間の搾取」以外の何物でもない。
結論:泥船から降りる勇気
付き合いが長すぎると、相手の異常性に慣れてしまう「ゆでガエル」状態に陥る。
しかし、客観的に見れば、彼の状況はすでに「保守不能なバグ」だらけのシステムだ。
「彼を見下すことで安心感を得ているのではないか?」という不安もよぎった。だが、今の感情は単なる優越感ではなく、自分の生活や精神を守ろうとする生存本能に近い「拒絶反応」なのだと思う。
40代の時間は有限だ。
「泥船に一緒に乗って沈む」ことは、誰の救いにもならない。
適当に受け流し、静かに距離を置く。
それが、20年という時間を共有した友人への、私なりの最後の手向けだと思っている。

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